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■故徳橋昭三先生を偲んで

森 香織

「トクさん」こと、徳橋昭三先生がこの世を去られてから、もう1年と1ヶ月が過ぎようとしている。訃報を伺ったのが、密葬も済まされた後で、私を含めて大学に関係する者は誰も、闘病中のお辛い様子を垣間見ることも、儀式的な葬祭に参加することもなかったので、「亡くなられた」という実感が未だに湧かない。いつものように、飄々と「風の旅人」のようにフラっと何処かへ行かれていて突然戻っていらっしゃるような気がしてならない。

日本大学芸術学部の元教授でデザイン論・デザイン史・基礎造形がご専門だった先生は、その名が示すように昭和3年の5月に長岡にお生まれになった。進路を決定する頃は日本の敗戦色濃く、美術の勉強をしたかった先生の希望は父上の勧めにより、農業を生業とすべく、方向の変更を余儀なくされた。やがて、宮城県の農業学校を経てその土地に開拓農民として落ち着かれ、亮子夫人と21歳の時に結婚なさり、1女をもうけられた。だが、断念したとはいえ美術創作への意欲は厳しい農作業の間にもますます募り、独学で描かれた抽象画が東北地区の絵画展に毎年入選するようになった。その審査員をしていた方々からの勧めもあって、妻子を一の関に残して単身上京し、本学芸術学部美術学科に入学されたのである。

当初は美術青年だった先生が、デザインや基礎造形や立体の方へ転向なさったきっかけは、当時の主任教授の山脇巌先生の指導によるものだった。大学生とはいえ、一家の主人として家族と一緒に暮らせるよう配慮されたのも一因だが、第1の理由は先生の才能を早くから見い出し、御自分の助手として傍においてもっと研究させ、ゆくゆくは後継者にしたい御考えだったのであろう。その御希望の通り、先生は助手を経て専任教員として長く授業と研究の道を歩かれるのだが、お年を召される程に哲学者の風貌・雰囲気が増されて近寄りがたい気がする時もあったが、お優しく、思慮深く、寛大で、現実に対する洞察力がことの外深かった方であった。

先生にはたくさんの「趣味」があって、それは「木のぼり」や「セメント塗り」や「蘭の栽培」など数えきれぬ程で、退職されてからその「趣味」を思いっきり満喫する日々を楽しみにされていた。病魔とは本当に残酷で、専任の間は大学の検診を受けておいでだったのに退職されてすぐに「ものが飲み込みにくい」ご様子になられ、精密検査を受けられた時は胃を中心に腫瘍が広がっていた。それでも術後のげっそり痩せられた身体に鞭打って出講なさり、後を引き継ぐのが不肖私だと分かってからは、殊の外、丁寧に細かく御指導頂いた。その折々に誠意溢れる先生のお言葉の中でも私が一番心の支えにしているのは『基礎科目は絶対に、教員は手抜きをしてはいけない』という一言である。私も大学教員はまだ17年しか務めていないが、先生と同じ思いを抱いており、合目的性や機能性を前面に出した実際のデザイン課題よりも、発想や着想や素材の体験を徹底的に学ぶ基礎教育の期間は、誰が何と言おうとも、デザイン教育を大学という組織の中で行うには不可欠と信じている1人である。改めて先生からこの言葉を伺うとは思わなかったが、逆に言葉に出して伝えねば…とお考えになった程、現在の複雑化多層化したデザインをとりまく現象に教育者として杞憂され、密かに警鐘を鳴らされたかったのであろうと思う。

先生は謙虚で清潔なお人柄であった。あれだけの実力と実績があれば、テキスト単行本やベストセラーはいくらでも世に送り出すことができたはずなのに、デザイン・造形を「学問」として距離を置いた対象として常に客観的に俯瞰しつつ、御自身の「目に見える業績の手段」には決してなさらなかった。切り売りした題材としてトピックスやテーマになさることもせず、デザインの成り立ち・運動の良いところも問題点も把握されて、その上での「現実のデザインのすべて」が先生の学生へ示す対象であっ た。御自身はもっと上のフィールドにいらして仙人のように、すべての現象を超越した立場から全体を静かに見守っていらしたような感じがする。

大学院の指導教官だった朝倉先生に続いて厳父のような徳橋先生までも、さっさと旅に出てしまわれて、残された未熟者にとっては心細い限りであるが、皆それぞれの心の内に先生方は生き続けて励ましたり叱ったりして下さっているのだと思う。先生の御冥福をお祈りすることはもちろんなのだが、後を受け継ぐ者として精一杯努力をしてバウハウス〜山脇〜徳橋〜と流れてきたデザイン理論の本流を、どうこれからの時代のデザイン教育の中で活かしていくか、身の引き締まる思いである。

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