田中 淳
さる3月某日、わたしは電話によるメッセージで、急に声が出せなくなるほど、悲しみの思いが迫ってきた。それは、日本基礎造形学会・荒井俊也事務局長からの『朝倉先生の唐突なご逝去』という思い掛けない知らせだった。
信じられない事実に、なぜ、どうしてという気持ちといっしょに、振り返ってみて、いろんなむかしからのことがらが、わたしの中でいっぺんに思い返されてきた。
さかのぼって、朝倉先生と知り合ったのは、日本デザイン学会研究発表大会で、お互いの研究のことを話し合った時だった。確かそのころ、朝倉先生は京都におられた。先生は、カメラでとらえた様々な事象をまとめ、光や動きについて構成のすばらしさを提示されたと記憶する。また、わたしのテクスチュア研究の将来性に、熱意ある応援の気持ちを話してくださり、激励してくださった。
忘れもしない頼り甲斐のある友情の始まりだった。永年、先生が主査を勤められた日本デザイン学会文献部会の文献調査をわたしもやっていた。
こうして学会の集まりでは、頻繁に笑顔を交換しあい、必ず一緒に昼食の弁当をつついていた。色彩に強い関心と興味をもっておられた先生は、わたしの服装の配色をたびたび話題にされた。
だから、わたしは学会に出かける時、入念にスポーツシャツのおめかしを欠かさないように工夫していた。ほめられた時は嬉しくて、家に戻ってすぐそのことを家内に話した。
だから、文献部会のエキスカーションで1泊2日の予定を立て、名古屋のデザイン博覧会に出かけた時に、我が家は家内同伴で出掛けたから、旅行準備にはとても手間取ったことを覚えている。
でもデザインのことを、当時の筑波大学の留学生達と楽しく語る先生は、終始、陽気で、屈託ない笑顔でみんなを撮影して下さったりしておられた。
今度の台湾での国際学会の開催と運営は、当時の留学生だった教え子で、現在の台湾の諸大学の先生たちの手に任されることだろう。 学会の開催や運営といえば、日本基礎造形学会に入会して翌年、福岡大会の大会実行委員長をわたしがつとめることになったのも、先生にすすめられるまま、台湾に出掛けていったことからといえそうだ。
多くの人たちとともにいることを、常に楽しんでおられた先生だったと、思い返されてくる。
だれにたいしても人と人を和ませつつ、暖かい気持ちをその周辺に向かって、絶えず発散しておられた先生だったと、つくづく惜しまれる。
日本のデザイン界に大きな足跡を残された、日本基礎造形学会ならびにアジア基礎造形学会の働きの常に中心だった『故朝倉直巳先生の御霊よ、やすらかなれ』と、ご冥福を祈るばかりです。
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